ペップ出版に入社した翌年の1975年には、いわゆるタレント本を何冊も編集しました。訳わからずのうちに、次から次へと本を作っていたような気がします。
編集者は僕一人だけで、相談する人もいないので、今考えると、ずいぶん乱暴なことをしていたに違いありません。
どんな本を作っていたのか、ちょっと挙げてみます。
鶴光さんものでは、「続・かやくごはん」「午前1時のひまつぶし」の2冊。意外に少なかったんですね。
鶴光さんものでは、「続・かやくごはん」「午前1時のひまつぶし」の2冊。意外に少なかったんですね。
オールナイトニッポンの「夜明けの紙風船」も、この年の初めだったと思います。
意外なところでは、沢たまきさんの「大学生諸君」という本も手掛けています。
テレビの「プレイガール」を見ていたので、真面目な本に仕上がって驚きました。
そんなことを言ったら、あの世から「ばっきゃろー!」と怒られそうです。
何度かお酒をご一緒したのを覚えています。こうやって故人のことを偲ぶのはいいことかもしれません。
テレビの「プレイガール」を見ていたので、真面目な本に仕上がって驚きました。
そんなことを言ったら、あの世から「ばっきゃろー!」と怒られそうです。
何度かお酒をご一緒したのを覚えています。こうやって故人のことを偲ぶのはいいことかもしれません。
フォーリーブスのメンバーだった北公次さんの「256ページの絶叫」も、この年。変なタイトルですよね、これは。
苦肉の策というか、あれこれとタイトル案を出したのですが、なかなか決まらなくて、最後は本の総ページ数をそのまま使ったのです。絶叫に「さけび」というルビをふったのかな……。ジャニーさん、メリーさんともこのとき、一度だけお会いしました。
西城秀樹さんの「誰も知らなかった西城秀樹」という本も出しました。このタイトルは、完全なパクリです。
その前に、山本コータローさん「誰も知らなかった吉田拓郎」(八曜社発行)という本をペップ出版で販売委託されて発売していたのです。
ほんと、ダメ編集者の典型です。こんなところで懺悔しても仕方がないのですが……。
この「誰も知らなかった西城秀樹」のデザインは、巨匠の横尾忠則さんが担当してくださいました。
横尾さんから「出入り禁止」の烙印を押されたのは、懺悔しておかなくてはいけないかもしれませんね。
横尾さんから「出入り禁止」の烙印を押されたのは、懺悔しておかなくてはいけないかもしれませんね。
横尾さんがデザインするのは、カバーまわりと口絵ページだけだと思い込んでしまい、本文の文字組は僕が勝手にやってしまったのです。
それを知った横尾さんが怒って、僕は謝りに行くこともできず、担当を外される羽目に。
それを知った横尾さんが怒って、僕は謝りに行くこともできず、担当を外される羽目に。
大御所の怒りをかったのは2人目です。恥ずかしいやら、情けないやら、悔しいやら……。
タレント本ではありませんが、金子光晴さんの「人非人伝」という本の編集補佐をしました。外部の編集者が担当したような気がします。
不思議な本でした。本文を茶色の紙にして、復刻本として発売したのだと思います。いま手元にないのが残念でなりません。
ずうとるびの「不思議な国のずうとるび」という本も作りました。曰く付きの本です、これは。あのNHKに一杯食わされてしまったのです。
もう時効だから書いてもいいでしょう。
実は、この本はずうとるび本人たちがあまり関わらずに作っていたのです。
ですから、本が出来たとき、ずうとるびはNHKの取材に「知らなかった」というようなコメントをしてしまったらしい。
実は、この本はずうとるび本人たちがあまり関わらずに作っていたのです。
ですから、本が出来たとき、ずうとるびはNHKの取材に「知らなかった」というようなコメントをしてしまったらしい。
それを知らされないで、NHKからの取材を僕が受けてしまったのです。
当然、トンチンカンな応答になってしまい、それがそのままオンエア。しかも、夜9時からのニュースで。全国へ。
当然、トンチンカンな応答になってしまい、それがそのままオンエア。しかも、夜9時からのニュースで。全国へ。
NHKの影響力はすごかったですね。いろんな人から電話をもらいました。社長からは大目玉をもらいました。
NHKのディレクターからは謝りの電話をもらいました。だますつもりではなかった、と。
いわゆる「タレント本」はゴーストライターが書いている、ということが公になった初めての出来事ではないでしょうか。その片棒を担いだ編集者として、変なところで名前が売れてしまったのは、よかったのか悪かったのか……。
それでも、編集者としてのHAPPY DAYSはつづいていきました。毎週、鶴光さんのオールナイトニッポンがありましたからね。
ノアズブックス 編集長 Hideo. K
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