このタウン誌に連載をしていた作家がいました。テディ片岡さんです。毎号、ショートショートを書き下ろしてくださっていたのです。
テディ片岡さんというのは、いまの片岡義男さんが当時使っていたペンネームです。
1974年に「白い波の荒野へ」で小説家としてデビューする前の、コラムニストの時代に使っていた名前です。
よく、どうして編集者になったのですか、作家になりたいとは思いませんでしたか、と聞かれることがあります。
そういう意味では、片岡さんの洒落た文章は、僕に作家への道をあきらめさせるのに十分でした。自分の周りにいる人の文章で驚かされたのは、片岡さんで三人目。
最初に驚かされたのは、高校生の時に漫画家としてデビューしていた矢作俊彦さんです。
大学1年のとき、東横線の白楽にあるスナックでアルバイトをしていたことがあります。その店で、矢作俊彦さんと出会ったのです。
彼の博学ぶりとキザな振る舞いが、ひとつ年下とは思えないほど、大人びて見えました。
初めて彼の漫画を読んだときより、彼が書いた映画の脚本を読んだときのほうが「すごいな!」と実感したのです。オリジナリティにあふれ、驚くほどの自信家だけど、繊細なこころと美意識を持っています。
矢作俊彦というペンネームになってから、編集者として仕事を頼んだことが一度だけあります。
すぐに廃刊になってしまった「大学マガジン」という月刊誌で、小林麻美さんと対談をしてもらい、彼女のビジュアルに合わせた文章を書いてもらったのです。
原稿締め切りの日、電話に出た矢作さんは「まだ書き上がっていないんだよ。事務所に来て待っててくれる」と言うのです。
駒沢通りと旧山手通りが交差する槍が崎の事務所に行くと、原稿は一行も書かれていませんでした。でも、それからがすごい!
目の前で万年筆がまるで踊るように、原稿用紙の上を滑らかに動いていきます。原稿が出来上がるまでは、あっという間でした。しかも、素晴らしい文章。脱帽でしたね。
もうひとり、大学時代に知り合ったのが、同じ歳の関川夏央さん。
僕の高校時代の親友が芝居をやっていて、その稽古を見に行ったのですが、そのときの演出家であり脚本家であり主役だったのが、関川さんだったのです。
彼は編集者から作家になったのですが、作家になってからは二、三度しか仕事をしていません。
年に一、二度、共通の友人と三人で飲むくらいですが、関川夏央さんの勉強ぶりにはいつも頭が下がる思いです。
片岡義男さんとは一度もお会いしていませんが、その後の著作を読ませていただくたびに、この「ドロップイン伊勢佐木」時代が思い返されます。
編集者になる前に出会った矢作俊彦さんと関川夏央さん、同世代の二人には不思議な縁を感じています。いつか、楽しい仕事ができたらいいな、と思っています。
編集者と作家としては、吉村達也さんと多くの仕事をさせていただいてきました。今年もまた、何か面白いことをしよう、と話し合っています。この企画がHAPPY DAYSにつながることを願ってやみません。
ノアズブックス 編集長 Hideo K.
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