「ドロップイン伊勢佐木」が好調だったからなのでしょうか、社長が「中華街のタウン誌を出そうと思っている」と言うのです。
商売上手の社長は、神奈川県の観光協会に太いパイプを築いたのか、積極的に拡大路線へと突き進んでいくのですが、その最初がタウン誌の「中華街」だったと思います。
知り合いの映画助監督に原稿を依頼していた関係で、この「中華街」創刊号に有名人のメッセージを頼んでほしい、と社長から強い要望がありました。要望というより命令に近かいものでした。
僕の知人は元役者で、元彼女の義理の兄、港湾労働者の先輩、というちょっと複雑な関係でした。
その彼が取材のOKをとってくれたのが、なんと渡哲也さんなのです。早速、マネージャーのKさんと打合せの段取りをとってくれました。
最初は取材で話を聞いて、それを原稿にまとめるということだったのですが、渡哲也さんのスケジュールの都合がつかず、原稿はマネージャーのKさんのほうで用意してもらえることになりました。
どうしても会いたかった僕は、せめて写真だけでも撮らせてほしい、と大胆なお願いをしてみたのです。断られると思ったら、二つ返事でOK。
ところが、ここで問題が発生しました。取材日に、カメラマンの小山女史がどうしても都合がつかないのです。弱りましたね、このときは。
小山女史が「梶原くん、撮ってきたら。大丈夫よ、いつも撮ってるじゃない」と嬉しいような、怖いようなことを言ったのです。
確かに、小山女史が行けないときは、お店の写真やインタビューする人の写真を撮っていましたが、いくら何でも渡哲也さんを撮るなんて……。
最後は、社長の「行って来い!」の一言で決断。ドキドキの撮影が決まってしまいました。
当日は、一人で行くのは不安なので、高校時代の親友である小林くんに車で現場まで送ってもらいました。情けない。
場所は、世田谷の砧にある東宝撮影所。鶴見に住んでいた小林くんに、妙蓮寺まで迎えにきてもらい、第三京浜を通って砧へ向かいました。
砧撮影所で待つこと1時間。マネージャーのKさんに呼ばれて行くと、撮影所の扉を開いて、あの渡哲也さんが目の前に現れました。
おそらく「ここでいいの?」とか何とか言ったと思うのですが、まるで覚えていません。緊張の極地。
扉から出てきた渡哲也さんのカメラを向けて、あわててシャッターを押しました。何枚撮ったのかなんて、数える余裕などありません。
ただひたすらファインダーをのぞいて、シャッターを押し続けるアマチュア・カメラマンに、渡哲也さんはとても優しかった……。
連射一眼のキャノンAE-1といったカメラが出る前ですから、当然、一回シャッターを切るたびに、フィルムを巻き上げ、またシャッターを切るわけです。
どうみてもプロには見えない僕に、渡哲也さんは嫌な顔一つせず付き合ってくださいました。
でも、これは書きたくなかったのですが、その写真が誌面を飾ることはありませんでした。
雰囲気のある写真よ、とカメラマンの小山女史は慰めてくれましたが、撮った写真はことごとく露出不足で、とても使えるものではなかったからです。
写真も文章もデザインも、雰囲気だけではだめで、必要十分条件を満たした上で、どう個性を出して行くのかが大切ですね。そんなことを教えてもらったような気がします。
仕事でHAPPY DAYSにするためには、プロになるしかありません。失敗をするのは恥ずかしいことでもなんでもない、とずいぶん後になってから気づきました。
ノアズブックス 編集長 Hideo K.
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