2011年6月18日土曜日

三宅裕司座長の劇団S.E.T.

三宅裕司さんとは、不思議な縁を感じています。彼が座長を務める劇団S.E.T.(スーパー・エキセントリック・シアター)のマネージメントを、親友の出口孝臣さんがやることになったからです。
出口さんは横浜市立港北小学校の同級生。「デンちゃん」「カジ」と呼び合って、ずっと付き合いがつづいています。

1982年だったかな、ニッポン放送で「電話好きっ娘ラジオっ娘」という番組がありました。そのパーソナリティを務めていた三人娘(水島かおり、西端やよい、高橋めぐみ)を、出口さんが自分の事務所でマネージメントとしていたのです。
彼女たちが「Lady oh!」というグループ名でレコード・デビューが決まったとき、出口さんは三人娘を引き連れ、芸能プロダクションのアミューズに移りました。大里洋吉会長が熱望したからだと聞いています。

そのとき、S.E.T.も出口さんがマネージメントしていたので、一緒にアミューズへ移籍したんじゃないかな……。アミューズにとって、本命はLady oh!だったと言ったら、三宅さんは怒るかもしれませんけどね。

僕がS.E.T.の公演をはじめて観たのは、ニッポン放送の銀河スタジオ。調べたら、1983年1月22日のことでした。演目は「コリゴリ博士の華麗なる冒険」。
座付き作家の大沢直行・作で、遺伝子組み換えというシリアスなテーマでいて、3分に1回は笑いをとるというミュージカル・アクション・コメディ。大爆笑でした。特に、三宅さんと小倉さんのかけ合いは抱腹絶倒もの。

そのあとも、名探偵丸越万太シリーズの「不完全殺人事件」を新宿の小さな劇場で観て、すっかりS.E.T.のファンになりました。
それからは、ほとんどの公演を観にいっています。「リボンの騎士」「十五少年入院記」「ディストピア西遊記」「メガ・デス・ポリス」……挙げていけばきりがないほど。

三宅さんを紹介されたのは、いつだったのか、はっきり覚えていません。楽屋だったのか、ニッポン放送だったのか……。
親しく話すようになったのは、間違いなくニッポン放送で三宅さんが番組を始めてからです、なにしろ、担当ディレクターが親友の宮本幸一さんでしたからね。伝説の番組「三宅裕司のヤングパラダイス」です。

略して「ヤンパラ」と呼んでいましたが、最初は「完全無欠のロックンローラー」がヒットしたアラジンの高原兄がパーソナリティを務めていて、三宅さんはS.E.T.の小倉久寛さんたちとコーナーをやっていました。
ところが、番組の聴取率が思ったほど伸びず、一発逆転の切り札として、1984年2月から三宅裕司さんがメインパーソナリティに起用されることになったのです。宮本ディレクターの大英断。

その当時は、まだ知名度もあまりなかった三宅さんですが、そこは宮本ディレクターの演出力と三宅裕司の演技力が巧くかみ合い、たちまち人気番組になっていきました。
「ドカンクイズ」はいまでも忘れられません。オンエア中、スタジオは大盛り上がりでした。

僕は別に仕事があったわけではありませんが、時間があるとスタジオに顔を出していました。面白そうな本が作れる予感があったのかなあ……。

そんなあるとき、のちの大ヒット・コーナーとなる話が、番組の始まる前の雑談から生まれました。
三宅さんが「水戸街道で怖い目にあっちゃってね……」と、ヤクザのヤッちゃんとの遭遇を身振り手振りで、面白おかしく語り出したのです。
それを聞いていた誰もが、爆笑につぐ爆笑。と、宮本ディレクターは「それ、番組のイントロで使える」と。

こうして、伝説のコーナー「恐怖のヤッちゃん」は生まれたのです。
三宅さんにしてみたらHAPPY DAYSではなかったでしょうが、これがリスナーにも大受け。ヒットというのは、ひょんなところから生まれると実感しました。


ノアズブックス 編集長 Hideo. K

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