2011年5月2日月曜日

笑福亭鶴光さんの「かやくごはん」①

ペップ出版は不思議な会社でした。いま思い返してみても、信じられないことがいくつもあります。

出社した最初の日など、9時30分に会社へ着くと、ドアに鍵がかかっていましたからね。
待つこと30分。初対面の女性が出社して来て、会社の中には入れましたが、僕のことをまったく聞いていないらしい。

考えてみれば、僕のことを知っているのは社長ただひとり。その社長が来るまで、ただただ待つだけ。その間にも、数人の男女が出入りし、何となく忙しそうでした。
でも、僕に話しかけてくる人は誰もいません。

その日、社長が何時に出社してきて、その後どういうことになったのか、まったく覚えていません。
ただ、次の日も、その次の日も、10時前に出社すると、会社の鍵がかかっていたのだけはよく覚えています。玄関の鍵を支給されたのが4日目だったのも忘れられません。


9月に入ってすぐ、社長から「土曜日深夜のオールナイトニッポンを聞いておくように」と言われました。作家の近藤啓太郎さんの高校生になる息子が面白いと絶賛しているから、と。

聞きました。眠いのを我慢して。

深夜の1時から始まり、朝の5時まで。関西弁のしゃべりに圧倒され、眠気はどこかへ吹っ飛んでしまいました。

これが笑福亭鶴光さんとの一方的な邂逅(かいこう)です。衝撃的というか、笑劇的というか、とにかく初体験の驚き桃ノ木びっくり放送でした。

関西の若手落語家で、当時まだ26歳だったと思います。
鶴光さんは1月生まれなので、僕より学年は2年上ですが、とにかくハチャメチャな放送に驚くばかりで、あのエロ攻撃についていけるか、ちょっと不安でした。

ペップ出版の松崎満社長は当時30歳ですから、行動力、決断力ともにすごい。
翌週には、鶴光さんと会う段取りを組んでしまったのです。

土曜日の番組が始まる前に、本人とご対面です。

僕が「たった1回しか放送を聞いていないですよ」と言ったところで、聞く耳を持ってはくれません。とにかく、鶴光さんの本を作れ、という断ることなど許されない命令です。

深夜放送のオールナイトニッポンは、ラジオのニッポン放送が誇る看板番組です。当時も現在も。いや、あの頃のほうが現在より何倍もすごかったと思います。

その番組担当ディレクターとのコネクションを見つけた松崎社長は、一気呵成に切り込んでいきます。このバイタリティには、在籍中ずっと驚かされっぱなしでした。

ニッポン放送の子会社である音楽出版社(パシフィック音楽出版、略称PMP)の河原崎さんから、鶴光さんの番組担当ディレクターの鈴木隆さんを紹介してもらうことになり、土曜日の夜9時過ぎにニッポン放送へ行くことになったのです。


夜だというのにやたらと明るい河原崎さんに連れられて、ニッポン放送へ社長と一緒に向かいました。

何階だか忘れましたが、小さな部屋でハガキを読んでいる若い男性が……。この人が、あの「鈴木、お茶もってこい!」と鶴光さんから番組中に呼ばれている、有名な鈴木ディレクターでした。

河原崎さんは「隆ちゃん」と親しそうに呼んでいましたが、僕の第一印象は「何だか怖そうな人」というものでした。

しかも、いきなり「売れませんよ、本なんて」と否定的な発言。

すかさず、社長が「1万部は売れるでしょ」と言うと、鈴木ディレクター苦笑しながらも「なんだ、1万部でいいんですか。それなら絶対、大丈夫ですよ」と、今度は太鼓判を押します。河原崎さんの笑いに誘われて、社長と僕も思わず微苦笑。

その日は「鶴光さんに挨拶だけしていこう」ということになっていたので、第4スタジオだったか、第5スタジオだったか忘れましたが、そのスタジオのそばにある椅子に座って、社長とふたり、鶴光さんの到着を待っていました。

スタジオの中では、鈴木ディレクターがスタッフにあれこれと指示を出しています。もう、僕たちのことなど眼中にないかのようでした。

そして、とうとう初対面のときが訪れました。

でも、実は、この後のことはあまりよく覚えていないのです。
鶴光さんを鈴木ディレクターから紹介され、名刺を渡して挨拶をして、それからどうしたのか……。

地下鉄の日比谷線に乗り、中目黒で東横線に乗り換えて、妙蓮寺まで帰ったのだろうけど、何も記憶に残っていません。

おそらく、次の週にまたニッポン放送で会って、どんな本にするか話し合ったのだと思うのですが、曖昧な記憶です。

ただ、覚えているのは、鈴木ディレクターがいろいろと間に入って打合せが進んでいったことです。
怖そうな第一印象は、あっという間に変わってしまいました。鈴木さんがいなければ、この「笑福亭鶴光のかやくごはん」は世の中に出ていないと思います。

1974年秋、こうして本作りの第一歩が踏み出されたのです。

笑福亭鶴光さんが作り出してくれたHAPPY DAYSは、僕にとってまさしく青春の日々でした。いろいろな人たちと出会い、その縁でいまの自分がここにあると感じます。

ノアズブックス 編集長 HIDEO K.

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