2011年7月1日金曜日

TBSラジオ「ミッドナイト☆パーティ」

アミューズの出口さんとは、本当にいろいろな企画書を作成しました。小学校の同級生ということもあり、気心が知れていることが、企画書作りによかったのだと思います。
まず、出口さんが自分のやりたいことをバーッと話します。メモを取りながら聞いていて、わからない点や違うと思ったところを話し合っていく……。

都心のホテルに部屋を取ったり、箱根の旅館に泊まり込んだり……とにかく一晩で書き上げる、というのがポイントでした。
いい企画書はほとんど一晩で完成しています。粘ってやり直しても、好結果は生みませんでした。

映画の企画書をはじめ、テレビ番組、イベント、舞台、オーディション、アミューズ所属アーティスト関連……などなど、数えあげたらきりがありません。
そんな中で、ラジオ番組の企画を立ち上げました。それが、TBSラジオの「ミッドナイト☆パーティ」です。

深夜放送と言えば、ニッポン放送のオールナイトニッポン、文化放送のセイヤング、TBSのパックインミュージックがしのぎを削っていた時代がありました。
ところが、1993年当時はTBSは落ち目で、改革を余儀なくされていたのです。そこで、アミューズ出口さんの登場、となりました。

毎週月曜日から金曜日、深夜24時から27時の枠で、新しい深夜番組が作れないか、ということで企画を考えていきました。
ラジオ番組の製作会社であるシャララカンパニー佐藤輝夫さんにも加わってもらい、TBSの鈴木豊久さんたちとミーティングを重ねていったのです。

次世代のアイドルとなる女の子をパーソナリティにして、レコード会社、出版社、スポンサーを巻き込み、一大ムーブメントを作ろう、ということになりました。
だから「シンデレラドリーム」という冠が番組タイトルについているのです。

僕も外部プロデューサーとして、オーディションから参加。10代の女の子16人を選び、この「ミッドナイト☆パーティ」は1993年10月にスタートしたのです。

詳しく書いていくときりがありませんので、僕の実家で預かることになった松宮麻衣子ちゃんのことを少しだけ振り返ってみます。
オーディションに合格したとき、彼女は京都在住の中学3年生。最年少の15歳でした。
最初は毎週日曜日のイベントだけに参加していたのですが、そのユニークな個性がスタッフやリスナーに受け、歌うシンデレラとして番組特製のCDで「雨が降る前に」を歌うことになりました。

この曲は佐藤輝夫さんと一緒に作りましたが、隠れた名曲と言われています。なんて自画自賛してもしかたがありませんが……。
そして、坂井美唯子の「夜ふかしエンジェル」、古賀美智子の「パジャマDEデート」の3曲でCDを作ったのです。非売品でしたけど。

松宮麻衣子ちゃんは、中学3年を卒業する寸前の1994年3月から月曜日深夜2部(26時から27時)のパーソナリティに抜擢されました。
録音のため、毎週日曜日に京都から東京へ通っていたのです。場所は恵比寿にあるシャララカンパニーのスタジオ。

恵比寿に住んでいた僕も毎回、録音に立ち会いました。終われば、佐藤輝夫さんと3人で反省会を兼ねての食事会。そして、彼女は新幹線で京都へ。
そんな彼女にビクターエンタテインメントが興味を持ち、 秋のCDデビューが決まったのです。所属事務所もヤザパパに。

となると、京都在住のままでは活動に制限ができてしまう、ということで、真剣に東京へ出てくることが話し合われました。
彼女の強い希望もあり、両親の承諾もあり、いざ上京となったのですが、受け入れ先の家がなかなか見つかりませんでした。仕方なく、僕が実家の親に相談。

僕の実家のある鎌倉に住んでいるのは、親父とおふくろの二人だけ。部屋も余っています。問題は高校でした。
本人とも話し、鎌倉の高校に編入できなかったら、上京は一時あきらめる、ということにして、編入試験に臨みました。僕の親戚の娘、ということで(?)。

親の代わりとして、僕も面接に同行。 彼女の運の強さなのか、編入試験は見事に合格。僕の実家での生活がはじまりました。
これが、松宮麻衣子歌手デビュー秘話です。もう時効でしょうから、初めて明かしました。

彼女にとって、鎌倉での生活はどうだったのでしょうか……。
すべてがHAPPY DAYSではなかったでしょうが、夢を叶えるファーストステップとしてはよかったんじゃないかと思っています。
ずいぶん長いこと会っていませんが、元気でやっているのかな……。自分の娘のようで、つい甘やかしてしまっていたのが懐かしく思い出されます。

ノアズブックス 編集長 HIDEO K.

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