2011年6月16日木曜日

萩原健一「俺の人生どっかおかしい」

1983年は、忘れることのできない本にたずさわることになります。萩原健一「俺の人生どっかおかしい」です。
発売は1984年の1月ですが、初めて萩原健一さんとお会いしたのは、1983年の初夏だったと思います。

僕がどういうポジショニングで参加していたのかはよく覚えていないのですが、ワニブックスの横内氏から頼まれて、オブザーバー的な立場で打ち合わせに臨んだのだと思います。
外部の編集スタッフがいて、彼らが本を作ることになっていました。だから、最初の打ち合わせだけ参加してくれればいい、という話でした。

打ち合わせが終わり、ネットワークの事務所へ戻るとしばらくして、一本の電話が入りました。
いきなり「萩原です……」と言われて……。最初は誰だか、わかりませんでした。
まさか、萩原健一さん自らが電話をしてくるとは思いもよりませんでした。
萩原さんは、僕が全面的に参加しないことを知っていたのかもしれませんが、正直な気持ちを伝えてきました。

「いま本屋さんでワニの本を見てきたんですが、僕の本もああいうイラストの表紙の本になるんですか?」 萩原さんは、ワニの本という新書の本を見て、自分の本もああいうものになってしまうのか、と心配されていたのです。正直、驚きましたね。なんで、僕に電話をしてきたのか、と。
ワニブックスの編集者もいましたし、実際に作業をする外部の編集スタッフもいたのに……。

心配ありませんよ。おそらく、萩原さんの写真をカバーに使うと思います。
そう伝えましたが、電話の向こうで萩原さんはなおも心配そうでした。役者というのは、これほど繊細なのか、と驚きました。
まだ、何か話したそうでしたが、何かあれば、僕がきちんとしますから、と言うと、ほっとしたのでしょう。
「よろしくお願いします。失礼しました」
少しだけ明るい声に戻って、萩原さんが答えました。

この萩原さんの杞憂は、違った形で現実のものとなってしまいました。取材が終わり、原稿が上がってきたのですが、萩原さんがまったく気に入らない、と言っているらしい。
編集の濱口くんから電話をもらったのかな。ライターを変えたい、と。
女性だけど、Tさんがいいんじゃないかな、と伝えました。Tさんなら手練れているし、安心です。

……こんなことを公表していいかどうか、いま書きながらも迷っています。もう30年近く前のことだから、萩原さんも許してくれるでしょう。そう勝手に思い込んで、話を先へ進めます。

Tさんが書いた最初の原稿は、問題がなかったようです。ところが、Tさんのほうからギブアップの宣言が……。
また、濱口くんから電話です。最初の打ち合わせに出ているし、萩原さんと電話でも約束していたので、とりあえず原稿に目を通してみる、ということになりました。

一読して、濱口くんに「もういちど、取材させてほしい」と言いました。もっと突っ込んで話を聞かなければ、書けないと思ったからです。
萩原さんとふたりだけで、二度ほど話を聞かせていただきました。高輪プリンスホテルの和室だったかな……。けっこう正直に、具体的にいろいろと話してくれました。

いざ書くということになって、最適の筆者に思い当たったのです。何度か女性アイドルのものをお願いしたこともあって、実力のほどはわかっています。僕んかより巧いし、何よりも読ませるものを作れる人です。
いまでは戦友とも言うべき友である彼に、お願いした原稿は、萩原さんもとても気に入ってくれました。最後の読み合わせを高輪プリンスの和室で行なったのですが、すごく満足してくれたのを覚えています。

最後につい、甘えて訊きました。いったい誰だったんです、萩原さんのことをチクったのは?
厳しい目をした萩原さんは、しばらく沈黙がつづきました。いきなり、机をドンと叩くと、声を荒げて、ある人の名前を叫びました。
「あいつだけは絶対に許せねえ!」

もう時効ですから、こんなことまで書かせてもらいました。許してください、萩原さん。

カバーの写真を撮る日は、あいにくの大雪――。
南青山のスタジオで、ニコッと笑って、僕を迎えてくれた萩原さんの顔がいまでも思い出されます。
雪の中にたたずむ男、雪の中を歩く男……どれも様になっていました。さすが役者です。

萩原さんにとってはHAPPY DAYSではなかった日々のことでしょうが、この本のお手伝いができたことは忘れることができません。だから甘えて、こんな話を披露させていただきました。
あれから、28年あまりの月日が経ちました。いちど、ゆっくり杯を傾けたいですね。同世代の男同士で。


ノアズブックス 編集長 Hideo. K

0 件のコメント:

コメントを投稿