2011年6月9日木曜日

太田裕美「ニューヨークなんて怖くない」

太田裕美さんが歌手活動を休止して、ニューヨークに8ヶ月間、留学したことがあります。

そのときのことを書いた「八番街51丁目より」が、第4回ニッポン放送青春文芸賞優秀賞を受賞しました。

ニッポン放送編成部の吉村達也さんから頼まれて、その賞の下読みの審査員を1回目からずっと務めていたこともあり、太田さんのマネージャーに企画を提出しました。

それが「ニューヨークなんて怖くない」という素敵な(自分で言うのも変ですが)本です。

このタイトルを見て、いまなら「どうして?」と思う人がほとんどでしょう。でも、1980年代前半のニューヨークには、実際に怖い場所がたくさんあったのです。

そういう怖さを持った街のニューヨークで一人暮らしをしてきた、27歳の女性の目線で見たニューヨークを一冊の本にしたかったのです。


写真はニューヨークに何度も行っている浅井愼平さんに頼みました。ところが……。

浅井さんと太田さんのスケジュールがどうしても合わなかったのです。
一緒に行けないのなら、カメラマンは別の人にするしかない、と思いました。浅井さんに相談すると、アシスタントをしていた宮沢鬼太郎さんを推薦してくれました。

ニューヨークに行ったことのあるのは、太田裕美さんだけという怖い者知らずのスタッフで、4泊か5泊の強行スケジュール。

裕美ガイドを先頭に、カメラマンの鬼太郎ちゃん、マネージャーの渡部さん、僕の3人はお登りさん状態。裕美ガイドは、勝手知ったる場所だから、精力的に動き回ります。
カメラマンの鬼太郎ちゃんも、とにかくシャッターを押しまくっていました。

一日目、二日目は、僕にしたら訳わからずに、ただただ裕美ガイド一行のひとりとして、後についてくだけ。裕美一人が妙にはしゃいでいました。ハイテンション。

二日目の夜、鬼太郎ちゃんが部屋へ来て、ぽつりと「どう撮っていいかわからなくなった。コンセプトは何なの?」と言うのです。僕にしたら、えーっ!? ですよ。

思わず「コンセプトなんか関係ない」と言いました。とにかく、鬼太郎ちゃんが見たニューヨーク、感じたニューヨークを撮ってほしい、と。

その日、鬼太郎ちゃんはよせばいいのに、一人で夜のマンハッタンをさまよい、怖い目にあいそうになった、と後で聞きました。

なにしろ、その頃のニューヨークは、街中のいたるところ落書きだらけ。地下鉄もそうで、とても怖くて乗る気になりません。
地下鉄の駅に降りる階段のところに、ホームレスがいたりとか、怖い街だったのです。

5番街、パーク、マディソンといったミッドタウンでは夜ともなれば、売春婦たちがたくさん立っていました。おそらく、鬼太郎ちゃんは彼女たちに怖い目に……というのは想像できます。

そして、アヴェニューAより東側はかなり危険地帯でした。

そこへ、夜中、タクシーで行ったのです。全員で。
イエロキャブのドライバーが言いましたね。
「絶対に窓を開けたり、ドアを開けないのであれば、通ってやってもいい」と。

行くだけ、ということなんです。実際、すごいスピードで通り抜けたという感じでした。

こんな場所へ行きたい、と言い出したのは裕美ガイドですからね。本当の怖い者知らずは、彼女でしょうね。

いまのニューヨークを知っていると、まるで別の街といった感じです。1990年代に行ったときは、地下鉄にも乗れたし、夜の街を歩くこともできました。ただ、暗い路地へは入りませんでしたが……。

あの頃もいまも、都会の夜は暗い方がセクシーです。もう10年以上行ってませんが、ロンドンやパリなども、東京よりずっと暗いと思います。ニューヨークも明るいのは劇場があるところだけ。基本的には、街が暗い。

安全なら、暗い方がいいと思います。
物騒なら、明るくするのではなく、そんな場所へ行かなければいいのです。いくら明るくしたところで、危険地帯は怖いという認識を持つほうがいいでしょう。

そう言えば、ニューヨークで再演された「ウエストサイド・ストーリー」の舞台を家人とニューヨークまで観にいったのは、もう2年も前になります。マリアを演じた女性が素晴らしかった……。友人の川名くんがプロデデューサーに名を連ねているのも嬉しい。

本場ブロードウェイへミュージカルを観にいくのは、まさしくHAPPY DAYS。もう少し近ければ、毎年行きたいのだけど。

ノアズブックス 編集長 Hideo K.

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