2011年6月18日土曜日

おニャン子クラブ「ぜ〜んぶおニャン子」

オールナイターズの本を作ったことで、次の「おニャン子」も本作りに参加することになりました。
吉村達也さんが編集長。担当は,扶桑社の若手編集者,磯俊宏くんと僕。磯くんはまだ20代半ばくらいだったのかな。

本の企画が持ち上がったときは,まだ番組「夕やけニャンニャン」が4月に始まったばかりで,果たして売れるのかどうか,判断がつきませんでした。いわば、見切り発車です。
となると、編集予算もあまりありません。でも、ビジュアルは重要。撮影費はかさむばかり。

ネットワークという会社をやっていた僕は「予算オーバー分はうちで持つよ」と、吉村編集長に言いました。このときはまだ、成算があったわけではありません。
でも、このひと言が思わぬ結果をもたらしてくれたのです……。



予算を使えれば,編集は楽です。磯くんとふたり、撮影に取材に,できるかぎりのことをやっていきました。
内容的には,基本的にオールナイターズの本「私たちはバカじゃない」と同じような作りにしました。あの本がけっこう良くできていたからです。

番組では,女子高生という設定でしたから、撮影も学校を借りよう,ということになったのです。世田谷区上野毛にあるセント・メリーズというインターナショナル・スクールに決定。
この学校は,僕が卒業した聖光学院と同じキリスト教教育修士会が設立した学校です。でも、キャンパスの感じは雲泥の差。やはり、インターナショナルのほうが断然いい。

番組の責任者であるフジテレビの笠井一二ディレクターは、本については編成部の亀山千広さんにお任せで、まったく口出しをしませんでした。これはとてもありがたかった。
僕たちの自由に本作りをさせてくれたのは、笠井さんの懐の深さでしょう。そのぶん、プレッシャーもありましたけどね。

本を作っている中で、おニャン子クラブのデビュー・シングル「セーラー服を脱がさないで」が発売され、いきなりの大ヒット。これで、扶桑社のお偉いさんたちの見方ががらっと変わりました。
シングルの発売が7月5日。本は9月上旬の発売。企画段階では、1万部から2万部の初版予定で進んでいたのが、いざ発売が決まると、なんと初版部数が8万部!

扶桑社の片岡社長が「フジだから初版は8万部でいこう!」と言ったとか言わなかったとか……。まことしやかな噂が流れました。
これで、僕が自分の会社から持ち出した編集費など、一発でクリア。それどころか、過分な印税契約をしてもらったので、発売と同時に大儲けが確定したのです。

次の写真集「おニャン子ごっこ」も編集を担当。でも、ハワイの取材には同行できませんでした。それだけが心残り!?
この2冊の本で、僕の会社であるネットワークは、本当に過分な印税をいただき、後日、関係者の間で問題になってしまいました。詳しくは書きませんが、なんで編集プロダクションがそんなに印税をもっていくのか、と最初の事情など考慮することなく、印税問題だけが一人歩きしてしまったのです。まあ、それだけ売れたからなんですが……。

そう言えば、カレンダーも作りました。鎌倉の洋館で撮影。そこに1泊したんじゃないかな。
カメラマンは、最初の本「ぜ~んぶおニャン子」が扶桑社の社内カメラマン豊口さん、写真集「おニャン子ごっこ」とカレンダーが佐々木教平さん。

HAPPY DAYSの中、さらに仰天の話が吉村編集長から持ち上がったのです。それは、扶桑社との出版プロデューサー契約。
これがなければ、扶桑社であんなにたくさんの本を作らなかったかもしれません。1985年の秋、36歳になっていました。

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