2011年5月12日木曜日

笑福亭鶴光さんの「かやくごはん」②

鶴光さんとどんな打ち合わせをしたのか、今ではまったく覚えていません。どうしてそうなったかわからないのですが、大阪から東京へ来る新幹線の車中で初インタビューをしたような記憶があります。

本の内容は、生い立ちからこれまでの人生を語ってもらう「半生記」とオールナイトニッポンのコーナーに寄せられたリスナーのハガキで構成することも、誰がいつ決めたのか覚えていないのだから、歳はとりたくないですね。何回くらいインタビューしたのかな……鶴光さんの自宅にも泊めさせてもらったこともありました。

まあ、訳わからずの新米編集者がインタビューして、テープ起こしもして、ライターに原稿を発注して、ハガキを原稿に書き直して、おかしな部分はリライトして、本文レイアウトも自分でして、本文で使うイラストを発注して、印刷屋に原稿を入稿して、カバーの絵とデザインを発注して、カメラマンと一緒に鶴光さんの写真を撮りに行って、本文の校正をして……何から何まで、ひとりでやりました。何しろ、ペップ出版には編集者が僕のほかにはいませんでしたから。

カバーのイラストをチャップリン風にしようと決めたのは、鶴光さんと話してだったのかなあ。覚えていません。タイトルの「かやくごはん」は鶴光さんが決めました。以前、福山雅治さんのオールナイトニッポンに出演したとき、鶴光さんは間違えたことを言っていましたね。

この「かやくごはん」というタイトルは、確か月刊「明星」の取材があったとき「本のタイトルは?」と聞かれて、まだ決まってないとも言えず、なんか「ごちゃまぜの本です」と言って、ピンときたのか、鶴光さんが思わず「かやくごはん」と言ってしまったからです。

鶴光さんから「タイトルは『かやくごはん』でいこう」と聞かされて、横浜出身の僕には「かやくごはん」の意味がわからず、鶴光さんに「何ですか、それ?」と聞き返したのを覚えています。サブタイトルに「鶴光のむちゃくちゃハンセー記」とつけたのは、僕だったかなあ。このセンスのなさはきっと、新米編集者の僕だったと思います。

とにかく「大特急で作れ」との社長命令でした。活版印刷だったのですが、どういう指定をしていいのかわからず、何から何まで印刷屋の人たちにお世話になったのを覚えています。日本酒の一升瓶を抱えて、成増にある家族経営の印刷屋に何度となく通いました。

バタバタ、ドタバタの末、1974年12月の初旬だったと思うのですが、鶴光さんの「かやくごはん」は無事発売の運びとなりました。もう37年近く前のことなので、記憶違いがあるかもしれません。初版は1万部。印税は鶴光さん本人だけでした。鶴光さんが所属していた松竹芸能のマネージャに「印税はどうしますか?」と聞くと、きっぱり「いいですよ、うちは」と言われたのです。売れないと思ったのでしょうね。あれ? ニッポン放送にはどうしたのかな……。

鶴光さんのマネージャの期待を裏切り、最終的に17万部の売上を記録したのです。立派なベストセラーです。マネージャのMさん、悔しがりましたね。定価は580円だったかな。事務所に3%は払うだろうから、300万円近くになったのにね。

ということは、鶴光さんにはどれだけ入ったのかなあ。こんなこと書いていいのかな……うん、700万円近くか。37年前の700万円って、今ならどのくらいになるのでしょうね。ちなみに、僕の給料は額面で8万円か10万円だったと思います。

ただ、最初のうちは書店の人も鶴光さんのことを知らない方が多く、タイトルだけで料理本のコーナーに並べられたという、今なら完全に都市伝説になるようなエピソードが残っています。とにかく、ペップ出版始まって以来のベストセラーを新米編集者が作ったわけですから、松崎社長としてもウハウハの喜びようでした。

翌年の夏のボーナス、なんと100万円だったのですから、太っ腹な社長だなあ、と感動しました。でも、会社の儲けからしたら、たった一人しかいない編集者にこのくらい払っても何ともないくらいの利益だったのです。1冊200円の粗利として、3400万円の利益ですからね。

ボーナスの日、現金でもらった100万円をポケットに、高校時代の友人を呼び出し、美味いもの食べて、クラブにも行って、川崎方面へも繰り出しての大豪遊。使ったお金は10万円だったと思います。1ヶ月の給料分を1日で使ったのですから、これは大豪遊ですよね。まさに、HAPPY DAYSの一日でした。

ノアズブックス 編集長 Hideo. K




1 件のコメント:

  1. とても魅力的な記事でした。
    また遊びに来ます!!

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