2011年6月10日金曜日

ビートたけしのオールナイトニッポン

鶴光さんから自分の本を角川文庫で出したい、と連絡がありました。すでに、角川書店の角川春樹社長と約束してしまった、と言うのです。

「書き下ろしやのうて、『かやくごはん』そのまま文庫にしたらええ」(変な関西弁です)

鶴光さんはそう言うけど、そうは問屋が卸さない(編集者が許さない)気がしていました。

角川書店の編集者、たしか山口さんと言ったと思います。
彼も社長命令で、自分が作りたい本ではなかったのでしょう。お任せします、で打ち合わせは終了。

1980年12月に「かやくごはん」、翌年の2月に「続かやくごはん」の2冊が角川びっくり文庫として出版されました。

鶴光さんは喜んでくれましたが、これが大問題を巻き起こすことになってしまったのです。


ニッポン放送の吉村達也さんから「うちの川内局長が怒っています。会議で『梶原を呼べ』と大変でした」という電話が……。

角川書店から出た本に「オールナイトニッポン」のキャッチフレーズが使われているが、ニッポン放送は了解していない、と怒りまくっている、と。

「すぐ電話して、局長に会ったほうがいいですよ」という吉村さんのアドバイスで、電話でアポイントをとりました。無愛想な応対でしたね、局長は。怖かった。

ニッポン放送で川内局長にお会いして、率直に「角川書店から連絡がいくものと思っていました、配慮が足らず申し訳ありませんでした」というような謝り方をしました。ビクビクものです。

怒られるかなと思ったのですが、局長は「いやあ、そうやって仁義を通してくれればいいんだよ。わかった」と、その場で許してくれたばかりか、思いがけないことを言ってくださったのです。

「ビートたけしのオールナイト本を作りたいんだよ。得意だろ、この手の本は。どう、やってみないか」

怒られて出入り禁止になるのを覚悟で行ったのに、ご褒美のお土産をもらってしまったのです。嬉しかったけど、責任重大だなと思いました。

早速、番組担当の森谷ディレクターと打ち合わせ。初対面の森谷さんは、構成作家の高田文夫さんと話してほしいと、高田さんの連絡先を教えてくれました。
「僕からも連絡しておくから」と言ってくれたけど、なんか含みのある言い方だったな……。


高田文夫さんと会いました。青山のキラー通りにあるお店だったと思います。迷惑そうな口調で、こう言ったのです。

「もう、出版社と本作ろうって話してるんだよね」

案の定、予想された対応でした。でも正直、困りました。どうすればいいか……。このまま引き下がったら、単なる子供の使いで終わります。

「わかりました。でも、私もニッポン放送の川内局長から依頼されていますので、構成案を出させてください。それを検討していただいて、もう一度、お話しさせていただけませんでしょうか」

というようなことを言いました。仕方なさそうに、高田さんは首を縦に振ってくれました。

これで勝った、と思いましたね。

構成案を出せるなら、面白い本を作る自信があったからです。番組が面白いのだから、よほど変なことをしない限り、面白い本になるに決まっています。

早速、森谷ディレクターに報告。すぐに本の相談をしたい、と。

ここが勝負所です。間を置かずに、高田さんと再度の打ち合わせをしなければいけません。それには、森谷ディレクターの力を借りなければ、と思いました。

ビートたけしさんはすでにKKベストセラーズから「わっ毒ガスだ」という本をツービートの名前で出版して、ベストセラーになっていました。それに負けてはダメ。
こちらの目玉は、オールナイトニッポン事件簿。それに、ハガキ職人たちのネタ+たけしさんのコメント。これで十分に面白い本になる、と確信していました。

こうして、伝説の「ビーチたけしの三国一の幸せ者」が誕生しました。1981年7月の発売。

タイトルを考えたのも、構成したのも、ぜーんぶ、高田文夫さん。僕は何をしたのかなあ……。高田さんに、おんぶにダッコに肩車。

この本を一緒に作ったことで、高田文夫さんとはたけしさんのオールナイトニッポンが終わるまで、HAPPY DAYSを謳歌しました。飲んで騒いで仕事して。

本が出来上がって、川内局長にご挨拶に行くと、僕の手を握りしめて「ありがとう」と言ってくださったのが、何よりのプレゼントでした。

あの「梶原を呼べ!」事件が、すべての事の始まり。懐かしく思い出されます。

ノアズブックス 編集長 Hideo K.

1 件のコメント:

  1. その「かやくごはん」買いましたよ。ペップ出版から出てたのに? と子供ながらに不思議な気持ちで買いました。

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